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はじめに
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2024年 司教年頭書簡

『わたしのシノダリティを創ろう』Ⅱ

​シノドスがめざす〈道〉と〈宿〉の宣教

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■ はじめに

 2021 年から始まった第 16 回通常シノドスの歩みは、今年 10 月の 2 回目の総会で終結します。 今回のシノドスの目的は、現代の教会がシノダリティ(ともに歩むこと)を教会の本質として再 発見することにあります。教皇フランシスコはテーマとして、交わり(communion)、参加 (participation)、宣教(mission)の三つの要素を挙げています。これらは相互に深く関連し、影響 し合うものとして、全体として捉える必要があります。わたしは昨年の年頭書簡『わたしのシノ ダリティを創ろう』でもって、コロナ時代を生きるわたしたちが、日々の生活のなかでの「人との交わり」「社会参加」「信仰のあかし」についてふり返り、シノダリティを自らの生き方の基本に据えてみようと呼びかけました。 COVID-19(新型コロナウイルス感染症)のパンデミックは、世界中の人々に深刻な影響を与えました。多くの人が亡くなり、重症化し、経済的にも困窮しました。このような危機の中でも、 自分や自国の安全だけを優先するのではなく、困っている人々に手を差し伸べる無数の人がおられました。ようやくパンデミックが収束しようとする今年、この度のシノドスを契機に、日本のカトリック教会がシノドスの精神で宣教するために、どのような回心が必要かを考えてみたいと思います。

1. シノドスがめざす宣教とは

 第二バチカン公会議は、教会とは、キリストにおける神と人類の交わりと一致のための道具であると宣言しました(参照『教会憲章』1 項)。教会が神の救いの計画の道具であるといっても、 それは教会が世界を一方的にキリスト教化するという意味ではありません。シノドス的教会は、 教会を世界に対して開き、世界と対話的な姿勢で臨もうとしています。つまり、神は教会を通して世界に働きかけますが、それは《神⇒教会⇒世界》という単純な流れではなく、《神⇒世界⇔教 会》という相互作用の関係にあります。神は、原罪によって神との関係を失った人類を救うために、教会を世界に派遣し、歴史を通して世界と対話させます。したがって、シノドス的教会は、 世界に対して閉じこもるのではなく、世界と《ともに歩む》ために、世界の現実に目を向け、その時代に生きる人々との出会いと対話の中で、神から与えられた宣教の使命を果たすべく、つねに新しい道を探求しています。 今回のシノドスでは、教会の制度や組織、信者の関与のあり方を変革することで、現代社会における教会の課題に対処しようとするのではなく、イエスが示された神の国の宣教に立ち戻り、 その視点から今日の宣教の意味と方法を探求することをめざしています。

 

2. 対話型の宣教のイメージ〈道〉と〈宿〉

 教皇フランシスコが、2020 年に発表した回勅『兄弟の皆さん』の第 2 章「道端の異邦人」で、イエスの〈善きサマリア人のたとえ〉(ルカ 10・25-37)を現代の視点で解説しています。わたしは、このたとえにある〈道〉と〈宿〉に注目し、宣教の原点を探りたいと思います。

 エルサレムからエリコへと下る〈道〉で、強盗に襲われて血だらけになったユダヤ人がいました。その〈道〉をやってきた祭司やレビ人は、傷ついた人を見ても、〈道〉の反対側を通り過ぎました。神の律法を守り、人々に教える立場の人たちが、自分の同胞を助けようとしませんでした。〈道〉は、冷淡な態度をとる傍観の場となります。 その同じ〈道〉を旅していたサマリア人は、倒れている人を見つけると〈あわれに思い〉、その人がユダヤ人であるにもかかわらず、見過ごすことができませんでした。男の傷を油とぶどう酒で洗い、包帯で巻き、自分のろばに乗せて最寄りの〈宿〉に連れて行き、介抱し、宿の主人に金を渡し、男の世話を頼みました。そして自分の旅の帰り、また戻ってくると約束しました。 サマリア人は、単に男を助けるだけでなく、他の人にも協力を求めました。〈道〉は、サマリア人にとって予期せぬ出来事や出会いの場となり、〈宿〉は、ケアするための連帯の拠点となりま した。宣教の観点からすると、〈道〉は神の計画や恵みに出会う場所であり、〈宿〉は神の愛を 分かち合う共同体の場となりました。このように、〈道〉と〈宿〉は、サマリア人の行動において神の働きを示す象徴となりました。

3. 隣人を限定しない、隣人になる

 「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(ルカ 10・26)とイエスに尋ねられた律法の専門家は、自分の知識を誇示しようとして、律法の要約を引用し、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(同 10・27)と答えます。ところが、それを実行しなさいとイエスに言われた律法の専門家は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれか」 と質問しました。そこでイエスが語ったのが、「隣人になった人」の話です。 律法の専門家は、隣人とは自分と同じ信仰を持ち、自分と同じように律法を守る人だけだと思っていました。愛すべき人がいるとしても、愛すべきではない人もいるのです。自分のように正しく生きている人間は神が愛している人間であり、神が愛している人間同士は愛し合うべきだが、神が憎み見捨てている罪人を愛すべきではない。そう考え、それが正しいと疑いませんでした。しかし、イエスは、隣人とは誰かを決めてから「捜す」ものではなくて、わたしたちの方が出会った人の隣人に「なる」ものであり、隣人を愛するとは、隣人になることであり、「隣人とはだれか」と定義づけて「隣人を限定する」という発想を一掃されたのでした。サマリア人はユダヤ人から差別されていたので、男を見捨ててもよかったのですが、被害者の苦しみに共感し、偏見を超え、自分の身を汚しても構わないと決めました。隣人になるとは、道で出会った相手が敵だろうと、知らない人だろうと、面倒な人だろうと、相手を選ばずに近づくことだと、イエスは教えておられるのです。

4. シノドス的教会のモデルはイエス

 エルサレムからエリコに下る〈道〉は、実際険しい山道を通る危険なルートで、人通りも少なく、旅人が強盗に襲われることがよくあると、その危険性が知られていました。そのような場所で事件に遭遇すると、助けを求めても誰もいませんし、また誰の目も気にすることなく、通りすぎることができるのです。祭司やレビ人は宗教的な汚れを避けるために、自分の安全を守ることを優先し、倒れている男に近づくこともせず、見捨てていってしまいました。 ではなぜ、同じ〈道〉をやってきたサマリア人だけが、倒れている男を見て、〈あわれに思った〉のでしょうか。それは、イエスが自分自身をサマリア人になぞらえておられるからです。というのは、サマリア人の〈あわれに思って〉という感情は、神の深いあわれみをあらわす動詞 「スプランクニゾマイ」(肝がよじれるの意)という、イエスにのみ使われている言葉だからです。 サマリア人は、神のあわれみを体現しているイエスご自身なのです。イエスの神の国を宣べ伝える全活動を支えていたのは、天の父に対する愛と同時に、人々への限りないあわれみでした。ユ ダヤ人から疎まれていても、目の前のユダヤ人を助けるために、自分の安全や利益を顧みないサマリア人は、エルサレムで排斥され、苦しみと死を受け入れるイエスを予言していました。〈善きサマリア人のたとえ〉は、他の福音書には登場しませんが、この物語は救い主イエスの 人生を象徴しています。イエスは、神からの使命を果たすために、ガリラヤからエルサレムへと向かう〈道〉を歩みました。その途中で、イエスはさまざまな人々に出会い、彼らの苦しみや困難に共感し、癒しを与え、神の愛と恵みを必要とする人々に対して、善きサマリア人のようにあわれみを示しました。

5. 出向いて行く教会は野戦病院

 教皇フランシスコは〈善きサマリア人のたとえ〉を、「友愛」や「社会的友情」と名付ける人間 関係全体のより広い文脈の中に位置づけています(参照『兄弟の皆さん』)。人間の尊厳と共通の 善を尊重し、差別や排除を克服し、対話と協力を促進するというものです。 教皇は就任当初から、教会が社会に出向いて行くべきことを強調しています。「出向いて行きましょう。すべての人にイエスのいのちを差し出すために出向いて行きましょう。・・・わたしは、出て行ったことで、事故に遭い、傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです」(使徒的勧告『福音の喜び』49)。 典礼中心の今の教会の実情では、世の中の現実に目を向けることなく、生活から切り離された、 内輪的な信仰の殻の中で、安住してしまいます。だから、自分たちの快適な場所(個人の生活の場)から〈道〉へと一歩踏み出し、社会の中で苦しんでいる人、孤立している人、搾取されている 人、差別や不正に苦しむ人、無視されている人などに目を向ける必要があるのです。教皇が社会の周縁にいる人々への関心を呼びかけるのは、そこでこそ聖霊が働き、神の愛とあわれみが示されるからです。 教皇はまた、教会を野戦病院にたとえます。教会は自分たちの施設にこもって、興味のある人だけ来てくださいという姿勢ではなく、苦しみや困難に直面している人々を迎え入れ、物質的な援助とともに、何よりも霊的なケアを提供する、あの〈宿〉になるのです。 わたしたちは、どのような教会になりたいでしょうか。祭司とレビ人のように見捨てる教会でしょうか。それとも、善きサマリア人のように寄り添う教会でしょうか。

6. バリアフリーをめざす宣教

 わたしたちが出向いていく〈道〉は、多様な人々がともに歩む場所です。そこで出会う人は、自分と同じ地域や社会に住む人だけではなく、自分と異なる文化や価値観を持つ人も含まれます。〈道〉には、文化や国籍、思想の違いから生じる偏見や、障がいやジェンダーによる差別が存在 し、それらは〈道〉の平和と調和を乱し、人々の尊厳と権利を侵害しています。シノドス的教会は、社会から疎外されている人々の隣人となり、愛と共感を示します。隣人になるということは、自分の利益や立場に固執するのではなく、他者の視点や感情を尊重し、理解しようとすることです。シノドスの歩みは、多様な人々がともに生きることを学ぶ機会です。その意味で、シノドス的教会は、分断の垣根を越えて、人間の尊厳を守るバリアフリーの社会をめざすものです。神の前ですべての人が兄弟姉妹であるからこそ、互いに競わず、自己中心的な生き方ではなく、苦しみと困難の中にある人と助け合って、バリアフリーの社会を作るのです。 人間は自分を攻撃するものから本能的に身を護りますが、そのとき物理的な壁と共に、心の中に意識の壁を作ります。相手を憎み、差別し、さげすみ、いじめ、交際を絶ち、攻撃し、追い出し、抹殺します。さらに、わたしたちの周りには、自分が気づかない壁があります。例えば、車椅子で生活する人は、歩行者には見えない障害物や不便さに直面しています。わたしたちは、 彼らの声を聞き、彼らの立場に立って考えることで、より公平で快適な社会を作ることができます。社会にあるバリアは、人間の尊厳や可能性を奪っています。福音的な目とは、神の愛と正義に基づいて、社会の不平等や差別に対して敏感であることです。福音的な耳は、自分たちの利益や快適さに囚われるのではなく、弱者や社会の周縁におかれている人の声に耳を傾けます。

7. 宣教への熱意

わたしたちは洗礼を受けて神の家族に加わり、堅信の秘跡を通して、キリストの弟子として、 世界中の人々に福音をのべ伝える宣教の使命を与えられています。自分の信仰を自分だけのも のにしておくのではなく、周りの人々にも分かち合うことができます。宣教は、神からの恵みであり、神への奉仕であり、宣教に参加することは、わたしたち自身の信仰を深めることにもなります。 日本の宣教は、洗礼者を増やすことにおいては困難な状況に直面していますが、神から宣教に招かれているという意識を持ち、日本の人々に神の愛と恵みを伝えることへの情熱があれば、 神の計画の一部を果たす責任を持ち、そのために自分の能力や才能を神に捧げ、神の栄光のために働く喜びを分かち合うことができます。 京都教区には、戦後から今日まで、多くの司祭や修道者が宣教師として、自国を離れて来日し、難解な日本語を習い、キリスト教文化が少ない日本社会で、神の愛と救いの恵みを伝えるために、自分の人生をささげて働いてくださいました。宣教者との出会いから、宣教意識の弱いわたしたちは大きな示唆を受けます。また、日本で生活する外国人信徒の方々は、自国で培われた信仰心を持ち続けながら、神の愛を生きる宣教者の役割を果たしています。彼らは、日本のカトリック教会にとって大きな恵みであり、新たな活力をもたらしてくれています。日本人信徒は、外国人信徒との交流を通じて、多様な信仰表現に触れ、カトリック(普遍的な)教会の一員であることを実感するとともに、生活の中で信仰を生きる強さを学ぶことができます。

8. みことばを聴く教会とは

 貧しい人に福音を告げ知らせるために遣わされたイエスは(ルカ 4・18 参照)、自らが貧しい 人々の中に生まれ、貧しい人々とともに歩み、貧しい人々のために尽くされました。そして、 貧しい人々に対するあなたの態度は、わたしに対するあなたの態度であると教えられました(マタイ 25 章参照)。福音宣教は、言葉だけでなく、行動でも示さなければなりません。弱者や困っている人に手を差し伸べ、ともに苦しみを分かち合うことです。 イエスは〈善きサマリア人のたとえ〉でもって、律法の専門家に永遠のいのちを得るための方法として、神と隣人を心から愛し、出会う人々すべての隣人となることを教えておられるのではありません。そうではなく、イエスは「あなたは自分が知っている教えを、あるいは分かったことを、本当に真剣に行っているか、そのように生きているか」と問うておられるのです。イエスの教えを理解はしていても、そのように生きようとせずに、言い訳に終始し、自分を正当化し、自己弁護ばかりしているような歩みに陥っていないか。シノドス的教会にとって重要なこ とは、イエスの問いかけに耳を傾け続けることで、イエスに忠実に従い、信仰の真実性を示すことです。

9. シノドス的教会と不完全性

 現代のカトリック教会は、教会内部での宣教の熱意の欠如や、聖職者への信頼の喪失という問題に直面しています。教会が関与した性的虐待や、権力や金銭に絡むスキャンダルは、教会の倫理的権威と社会的役割を低下させています。教会は、自分たちの過ちを認め、被害者に謝罪し、 正義を実現することを約束し、より包括的で寛容な姿勢を示すことで、信者や社会からの信頼を 回復することが求められています。 シノドス的教会とは、教会の構成員がともに神のみこころを謙虚に探求し、キリストの体の一 部として責任を負い、教会の目的を達成するために協働する教会です。また、シノドス的教会は、 メンバーの欠点や弱さを受け入れ、限界を認めることで、不完全性を隠すことなく、それを共有する場です。そのために、教会内の多様性を尊重し、対話と相互理解を重視します。教会外の世界に対しても開かれた姿勢を示します。わたしたちは日々、神のあわれみを求めつつ、互いに敬 意を払い、自分と他者の人生において、神の霊がどのように働いているかを見出すように努めます。個人的にも、共同体的にも、司牧者としても、回心と改革の姿勢で歩むことが必要です。

10. マリアは出かけて、急いで山里に向かった(ルカ 1・39)

 2023 年のワールドユースデーリスボン大会のこのテーマのとおり、わたしたちはマリアの信仰に学び、神のみことばを聞き、聖霊の導きに従い、困難な状況にある人々に寄り添い、神の愛と喜びを分かち合うことができるようになりたいと願っています。マリアは、高齢で身重のエリザベトのもとに急いで向かい、互いに神の恵みをたたえ、自分の身分や立場にこだわらず、謙虚に神の働きを受け入れました。シノドス的教会をめざすわたしたちも、マリアのように、神のみ旨を探し求め、神の計画に参加し、神の子として生きることを選択したいと思います。 福音をのべ伝えることは、教会というキリスト者の共同体にのみ、課せられるものではなく、 人類全体がともに果たすべき使命と言えます。人類皆が、神の愛と恵みを受けています。だからこそ、その恵みを他の人々と分かち合う義務があるのです。 シノドス的教会は、イエスの福音を現代に行き渡らせることの緊急性を理解しつつ、急いで旅立つ時です。シノドス的教会は、〈道〉と〈宿〉の両方を大切にし、神の国の到来を願い、働きます。〈道〉とは、人々の生活や社会に関わり、対話や交流を通して信仰を分かち合うことです。〈宿〉とは、人々が集まり、ともに祈り、ともに成長することです。世代や社会階級、民族やその他のグループの壁を越えて、自分たちと異なる人々を受け入れる具体的な出会いを求めて、あらゆる宗教に属する人々と自分たちの信仰の恵みを分かち合い、相互に学び合い、神の愛を体現することで、世界の一致と平和の実現のために働きましょう。

2024 年 1 月 1 日  神の母聖マリアの祭日

✙パウロ 大塚喜直

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