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はじめに

2023年 司教年頭書簡

コロナ時代を生きる信仰 Ⅲ

わたしのシノダリティを創ろう

■はじめに

 第16回通常シノドスは、2021年10月の開会式から始まり、総会は2023年と2024年の10月に2回、ローマで開催されます。シノドスは世界代表司教会議と称されますが、シノドスとは、ギリシャ語の「ともに」を表す「シン」という接頭辞と、「道、旅、生きる」を表す「オドス」から成り立つ言葉で、「ともに歩む」「ともに生きる」という意味です。シノダリティとは「ともに歩むこと」「ともに歩むあり方」「ともに生きること」となります。

 今回のシノドスの目的は、教会の本質であるこのシノダリティを現代の教会が再発見することにあります。教皇フランシスコは、今回のシノドスが、そのプロセス全体を通して、信徒の誰もが教会を「自分たちの家」のように感じ、誰もが参加できる場所となり、兄弟姉妹たちの希望や困難に耳を傾け、寄り添う教会へと生まれ変わるチャンスになることを願われています。

 シノダリティには、「交わり」「参加」「宣教」の三つの次元があります。三位一体の神に由来する「交わり」である教会に、すべてのキリスト者がそれぞれの立場から「参加」し、キリストと神の国を告げる「宣教」を行います。

 今年の年頭書簡は、シノドスのアンケートの10の質問に沿って、日々の生活のなかでの、「人との交わり」「社会参加」「信仰のあかし」について、ふり返ります。コロナ時代を生きるわたしたちが、シノダリティを自らの生き方の基本に据えてみましょう。

 

1.わたしたちがともに歩む友とは

 わたしたちキリスト者は、神とともに歩むものです。4年目を迎えるコロナ禍の間、わたしは一体誰と歩んできたのか、この問いから始めましょう。この問いに答えるためには、普段の生活の中で、自分が接している人のことを想い浮かべるだけではなく、自分が誰に関心を向けて生きているのかについて考えることが含まれています。あらゆる世代の人が感染対策と社会生活を両立させたいと苦慮している中、わたしたちは、助けを必要としている人、苦しんでいる人に、少しでも寄り添うことができたでしょうか。自分だけの安全や安心を優先するあまり、人とのかかわりを避けていないでしょうか。

 『善きサマリア人のたとえ』(ルカ10・25-37)を思い起こしましょう。ユダヤ人の祭司とレビ人は、強盗に襲われた瀕死の人を見ても、避けて通って行きました。自分の居場所を守ることを優先したのです。一方、あるサマリア人はその人を見てあわれに思い、近寄り、手厚く介抱しました。他者の苦しみに寄り添い、新たな関係を築いたのです。世の中には、残念ながらコロナ禍があろうとなかろうと、他人の苦しみに無関心で、自己の利益だけを考える人がいる一方で、苦しむ人に犠牲を惜しまず、援助の手を差し伸べる無数の人がいます。献身的に働く医療従事者やエッセンシャルワークに従事する人々に感謝を表す人がいます。対面で接触できない状況で、SNSやインターネットなどの新しい手段で人と人をつなごうと努力している人がいます。このように、誰とでも、自分から人との触れ合いを求めて、相互に愛といつくしみの心で生きる時、そこに新しい人間関係が生まれています。これがシノダリティの基本精神です。

 

2.聖霊による交わりに生かされて

 シノダリティは、ともに歩む人の声を聴くことから始まります。耳を傾け合うところに交わりが生まれます。まずは、教会での声掛けを励行しましょう。ミサに来て、誰とも話さないで帰るのは寂しいことです。ミサの中での「主の平和」のあいさつを形式に終わらせては残念です。今日、教会で外国にルーツのある人々との出会いは日常です。ことばの違いから、コミュニケーションが難しいことは当然ですが、フィリピンやべトナムなど、アジア諸国からの技能実習生のように、日本語の習得に時間が取れず、もどかしく思っている人たちがいます。お互いに話しかける勇気がないとか、聴く側に心の余裕がないとか、単に時間がないなど、挨拶しない理由はたくさんあります。

 しかし、わたしたちが目指す教会の交わりは、人間的な親しさを求めるためでも、仲間がいた方が心強いという便宜的なものでもありません。キリストの体の部分としての交わりです。一つの聖霊によって、一つの体にともに連なる部分同士の交わりです(Ⅰコリント12章参照)。聖霊は、他者に心を開かせ、愛の交わりを生み出します。わたしが誰かの話を聴くことができれば、それは個人レベルではなく、教会共同体としての聴く行為にもなります。誰かの困っていること、悩んでいることが、共同体で共有できれば、解決のために互いに支え合う仲間になれます。そして、それは教会の中だけでは留まりません。わたしたちの一週間は、家庭や社会の中で、いつでも、どこでも、「聴く」という聖霊のたまものを活かす機会に囲まれているのです。ただ、聴くことの最大の課題は、教会でも、社会でも、自分で声を上げられない人たちの声なき声に、どうしたら耳を傾けることができるかです。

 

3.声なき人の声となる

 聖パウロは言います。「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」(ローマ12・4-5)。信仰者の分かち合いは、聖霊による一致のたまものです。だからこそ教会では、互いの思いを交換する分かち合いを大切にしています。信徒が教会共同体の益のために、各自の意見を述べることは権利であり、大切な務めでもあります。しかし、他人に自分の心を開くにはエネルギーも勇気も要るので、中には分かち合いが苦手な人もおられます。また、生活に苦労し、精神的余裕が持てず、周囲の人に積極的にかかわれない時もあります。さらに疎外感を抱く人は、声を上げることすらできません。そこで、共同体づくりのために、できる人が声を出せない人の声になるのです。教会から遠ざかっている人、離れている人の声になるのです。

 さらに、社会の周縁にいる人や、排除されていると感じている人の声なき声に関心を払うことも必要です。世界は今、パンデミック、ウクライナの戦争や各地の紛争、気候変動による自然災害、難民や移住者問題、人種民族差別など、多種多様な危機や問題に直面しています。それらの陰で、社会の片隅から湧き上がる「義に飢え乾く人」(マタイ5・6)の叫びがあります。そうした叫びこそ、声なき人の声であり、この叫びの中に聖霊が働いています。教会はこれを「時のしるし」として読み解きます。シノダリティを目指すわたしたちは、困窮者の苦しみや欲求に無関心ではなく、声なき人の声に耳を傾ける重要な務めも忘れてはなりません。

 

4.ともにいのちを祝う喜びを分かち合う

 今回のシノドスのアンケートの回答から、典礼への参加を「祝う」と表現したこと(英語では、ミサをcelebrate祝うと言う)を意外に感じ、祝う実感がないまま典礼に参加しているという実態が判明しました。外国籍の信徒の人たち、たとえばフィリピン、ベトナム、ラテンアメリカ諸国の人たちから、「日本語でのミサを元気にしたい」という声をよく聞きますが、それは日本語のミサには「ともに祝う」という雰囲気を感じられないという意味かもしれません。典礼に関するアンケートの目的は、共同体がみことばに耳を傾け、エウカリスチア(感謝の祭儀)を祝うことが、生活と宣教の刺激になっているかどうかを確認することでした。

 ところで、日本で「祝う」と言えば、神社のお祭りを連想します。神社とは、神が降りられる場、神がおられる場であり、人々は神と出会うためにお参りするのですが、その出会いを意図的に行うのが祭りだそうです。祭りは、地域の共同体によって運営され、人々の願いと生きる喜びを分かち合う場となり、地域社会の絆を継承していきます。祭りのこのような特徴は、キリスト教の典礼と共通するところもありますが、カトリック教会のミサの第一の特徴は、聖体の秘跡を通して、神と人といのちの交わりと一致が秘跡的に実現していることです。元気なミサというのは、聖歌や動作の効果による体感的なものではなく、参加者全員が心を一つにして、神との交わりと一致を感謝し、喜び祝う典礼が営まれることではないでしょうか。コロナ禍によって、ミサ参加が制限されたことで、ミサこそが、自分の信仰生活にとって重要であると痛感している今だからこそ、昨年の待降節から始まった日本の教会の新しいミサ式次第に慣れるだけではなく、ミサを共同体全員で祝いたいという祈りの心を深めたいと思います。

 

5.「貧しい人に奉仕する教会」の共同責任を担う

 教皇フランシスコの夢は、キリストが小さな人々を優先してともに歩まれたように、教会が貧しい人や社会の周縁にいる人に耳を傾け、奉仕する教会になることです。そのため、教会が社会に出かけていこうと呼びかけられます。わたしたちは、一人で神を信じ、一人で神との交わりに生きるものではありません。わたしたちの信仰には、必然的にキリストを頭とする体の部分である兄弟姉妹との交わりに生きることが含まれているのです。

 今回のシノドスの目的も、わたしたち一人ひとりが教会についての夢を抱き、この夢を教会共同体で共有し、教会のすべてのメンバーが奉仕者として宣教に参加することにあります。宣教は聖職者だけの務めではありません。信徒は日々の生活の中で、みことばのあかしと愛の奉仕を通して、宣教に参加します。奉仕とは、自分自身と、自分の時間と労力、物質的手段を、喜んで与える愛の表現です。こうして、愛の心で生きるシノダリティによって、貧しい人に奉仕する教会は、一つのキリストの体に成長していくことができます。

 ところで、現実の教会は、信者の高齢化、若者の教会離れ、多様な価値観への対応、財政の問題など、いくつもの課題を抱えています。誰もが、何とかしなければならないと思い、信徒同士で支え合いたい気概があっても、これといった解決策も見いだせず、仕方がないといった諦めの気分に負けそうになります。このような時だからこそ、司祭、修道者、信徒がシノダリティの精神で支え合い、課題に取り組む力を聖霊に祈り求めたいと思います。

 

6.住みよい社会のバリアフリー化

 今、世界中で、分断、差別、格差という現象が加速しています。イエスは、当時の社会におけるさまざまなバリア(障壁)を取り除くために、貧しい人、病人、からだの不自由な人、徴税人、異邦人、サマリア人、やもめや女性など、律法社会でさげすまれ、無視されていた人々と関係をもつことで、人々を隔てるバリアを越えて注がれる神のあわれみを実践的にあかししました。現代のわたしたちも、身の周りにある壁を見つけ、その壁に近づいてみましょう。たとえば、近くに介護を必要とするお年寄りがいるなら、介護の苦労と家族のあり方に想いを馳せたり、一人暮らしの高齢者や病者を訪問したりなど、個人でも、教会の仲間とでもできる奉仕を見つけられるかもしれません。心に病を持つ青年や不登校生がいれば、現代のこどもたちに共通する心の問題に触れ、支援できる活動に関心を持つことができるかもしれません。

 シノダリティとは、眼前で起こっている事柄に関心を持ち、人々に向き合い、具体的に活動を始めることであり、その結果、人々をつなぎ、新しい橋を架けることができます。たとえば、こども食堂を始めた人たちのように、小さなことから、出来る範囲で思いやりを示し、信念をもち、人の幸せのために自ら動く人たちがいます。だれかの援助やかかわりを待っている人の存在に気がついた人たちが、自発的に支援の活動を始めています。わたしたちが普段の自分の務め以外に、近隣清掃、草刈り、エコ活動、地域の福祉活動のボランティアなど、奉仕の輪に入っていくことも、一つのシノダリティの実践だと思います。

 

7.愛と真理に基づく対話の促進

 宗教に限らず、思想や信条の異なる人とともに歩むことには、いろいろと難しい面もあります。日本では家族の中で、自分だけがカトリック信者という場合は、家庭内での気苦労も多いと思いますが、すべての信者は、どのような家庭環境でも、家庭が第一の宣教の場であるという自覚を忘れないでください。家庭は改宗を薦める場ではなく、神の愛を分かち合う場です。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(Ⅰヨハネ4・20)。信仰の基本は、愛の実践です。神から愛される喜びと癒しを、惜しみなく家族と分かち合いましょう。家庭はシノダリティを育む根源的な場です。

 また、日本の教会には、キリスト教諸派が相互の一致をめざすエキュメニズムという活動とともに、神道・仏教・イスラム教などの諸宗教との対話という活動があります。対話とは、相手の考えや意見を変えることではありません。福音のメッセージを受ける人の良心を認め、カトリック教会の呼びかけに対する判断と選択と決断の自由を尊重し、その生き方に寄りそうことです。第二バチカン公会議は、真理の告知に関して、真理そのものには、優しく、そして強く、こころにしみ込む力があり、これによる以外には義務を負わせることはできないという原則を宣言しました(『信教の自由に関する宣言』1〈序文〉参照)。わたしたちキリスト者は、宗教間対話を通して、互いの宗教の違いを知り合うとともに、人類共通の普遍的な価値(正義、平和、平等、自由)のために協働することで、互いの一致を目指します。これも重要なシノダリティです。

8.地球に住む人々と、ともに歩む道

 世界各地の自然環境の悪化という事実が連日報道されていますが、わたしたちはあたかもそれらが存在しないかのように振る舞うことができます。しかしながら、どこか知らない場所での自然破壊は自分とは無関係だと思っていても、今や異常気象による自然災害が頻発し、身近な生活や経済が打撃を受けると、見えるどころか、実害を被るまでになってきているのです。そして、コロナによるパンデミックは、教皇フランシスコが言われるように、人類が同じ船に乗っている以上、個人でも、社会でも、国際政治においても、功利主義と利己主義を優先する行動は過ちであると、人類に警鐘を鳴らしています。

 自分の身を守ることに精一杯な現代社会において、利害関係で動くのではなく、誰とでも、ともに歩む生き方を自発的に選んでいく時、わたしたちキリスト者の信仰は社会から遊離することなく、世界の変化にも福音的に参加していくことができます。神は、歴史の中でわたしたちの一人ひとりが働くことを期待しておられます。教皇フランシスコは、わたしたちが「地球に住む人々とともに歩む道」こそが、神の巡礼者・宣教者としての教会の歩みになると言われます。この道は、シノドス的な教会になるための長い道のりですが、教会の組織が誘導する道ではなく、わたしたち一人ひとりが主体的に、普段の生き方と働き方の中で進んで行く道です。そうすれば、わたしたちのシノダリティは、地球人のライフスタイルとなるのではないでしょうか。

 

9.『聖霊による識別』を信じて

 この世界に起きている苦しみを、自分自身のものとすることができるかどうか、これはシノダリティのための不可欠な条件です。『金持ちと貧しいラザロ』の物語(ルカ16・19-31参照)では、金持ちは自分の家の玄関にいたラザロを目にしながら、その前を通りすぎるたびに無関心の一瞥を投げかけていました。かかわろうとしなかったのです。この物語は、人は神の恵みによって生かされるという、人間の本来の姿に立ち返ることにこそ救いの道があることを教えています。現代のわたしたちも、自分の門前にいるラザロと、どのようにともに生きようとしているのか、聖霊の声に耳を傾けなければなりません。パウロが言うように、霊的な賜物は、自分のためではなく、皆の益のために与えられ、それを全体でどのように生かすべきかを教えてくれます(Ⅰコリント12・4-11参照)。だから、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(Ⅰコリント12・26)。これは比喩ではなく、他者の苦しみを自分のこととして共感できる事実を語っているのです。

 神は、歴史を通してこの世を救われるので、世の中の出来事や現象の中に『時のしるし』というサインを送っておられます。教会はこれを『聖霊による識別』(Discernment of Spirits)によって読み解きます。識別という語に馴染みが薄く、ピンと来なくても、わたしたちは実際に『聖霊による識別』を行っています。わたしたちが神からの呼びかけに応えようと祈り、みことばに触れる時、聖霊は人間の努力を導くために働きます。共同体での分かち合いを通して、現実を分析し、評価し、判断し、共同体の合意によって、次の行動を決定するという、この一連の『聖霊による識別』は、シノダリティの正当性を保証してくれます。わたしたちの間に意見や感覚の相違があっても、聖霊は『時のしるし』を通して、頭であるキリストに聴き従う決断へと導いてくれるのです。

10.さあ、出かけよう!今こそ救いの時、恵みの時

 最後に、シノダリティの模範である聖母マリアを思い起こしましょう。マリアは、神のお告げを受けるとすぐ、エリザベトを訪問しました(ルカ1・39-56参照)。カナの婚礼では、周囲の人が困っていることに敏感で、自発的にイエスに働きかけました(ヨハネ2・1-12参照)。マリアの賛歌(ルカ1・46-55参照)では、貧しく、弱い人に寄り添い、自らを貧しい者として、社会の不正を前に毅然とした態度で生きる強さを謳(うた)っています。

 コロナによるパンデミックが収束したとしても、世界が以前の安定に戻れないことは、過去のパンデミックの歴史が証明していますし、戻るわけにはいきません。この苦難が終わるとき、新しい何かが生み出され、世界全体が今より少しでも良くなっているために、今、わたしたちが変わるためのチャンスなのです。自分は何に価値を置くのか、何を求めるかの優先順位を見直し、日常の中で、勇気をもって新しい歩みを始める救いの時、恵みの時(Ⅱコリント6・2参照)です。マリアにならい、家庭でも、仕事でも、生活の場で出会う人々とともに歩む道こそが、わたしたち信仰者としてのシノダリティです。

 この度のシノドスを機会に、わたしたちの交わりを深めるために、共同体づくりの組織や計画だけに任せずに、人と人との触れ合いを大切にし、さまざまな言語や文化がもたらす福音の豊かさを積極的に分かち合いましょう。マリアのように自ら貧しいものとして、貧しく、弱い人々のかたわらに走りより、ともに歩むという、わたしの『シノダリティ』を創りましょう。

                2023年1月1日 神の母聖マリアの祭日

                        ✙パウロ 大塚喜直

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