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2026年 司教年頭書簡

教皇レオ14世 希望と一致の橋をかける牧者
​〜京都教区の宣教司牧に響く教皇のビジョン〜​​​

■はじめに

 教皇フランシスコから教皇レオ14世への教皇職の継承は、福音の平和と対話の精神を受け継ぐ教会にとって、希望に満ちた幕開けとなりました。2025年5月8日、教皇レオ14世は就任メッセージにて「あなたがたに平和があるように」と祝福の言葉を述べ、前教皇への感謝と、分断を越えた世界の一致への願いを力強く表明されました。「恐れることなく、互いに手を取り合いましょう」との呼びかけのもと、教皇フランシスコの「出向いていく教会」ならびに「傷をいやす教会」というビジョンに、現代の息吹を吹き込みつつ、希望に満ちた未来への歩みを新たに始めておられます。

■教皇レオ14世の肖像

1. 教皇名「レオ」に込められた意味 レオ(Leo)という名はラテン語でライオンを意味し、聖書においてはユダ族やキリストの象徴として登場します。勇気・威厳・守護者のイメージを持ち、教皇名として霊的かつ象徴的な重みがあります。 教皇レオ14世は、この名を選ぶにあたり、近代カトリック教会において社会問題に最初に取り組んだ教皇レオ13世(1878–1903年)への敬意を表しています。教皇レオ13世は、回勅『レールム・ノヴァールム(新しいことがら)』を通して労働者の権利を守り、カトリック社会教説の基礎を築いたことで「社会教説の父」として知られています。この選名には、教皇レオ14世の司牧的なまなざし、すなわち、弱い立場にある人々に寄り添い、社会の痛みに向き合おうとする教会の姿勢がはっきりと表れています。

2. 唯一のお方の中に、わたしたちは一つ(In Illo uno unum) 教皇レオ14世のモットーは、聖アウグスティヌスの詩編127の注解から取られ、すべての違いを超えて、神において一致を目指す教会の使命が示されています。「唯一のお方」とは、すべてのいのちの源である神を指し、「わたしたちは一つ」とは、民族や文化、立場の違いに隔てられることなく、神のもとで人類がつながることを意図しています。 教皇は、ペルーにおける20年にわたる宣教活動を通じて、福音の力が多文化・多民族の人々をひとつの共同体へと結びつける可能性に心を傾けてこられました。移民や難民、社会の周縁に生きる人々との交わりの中で育まれたそのまなざしは、教会が「神の家族」として、すべての人を受け入れる場でなければならないという信念へとつながっています。 教皇の紋章には、聖母マリアを象徴する百合の花と、教皇が所属しておられる聖アウグスチノ修道会の紋章が配されています。そこには、マリアのように神の導きに心を開き、すべての人に寄り添う姿勢と、アウグスチノ修道会の精神に根ざした、教会の一致と交わりを重んじる思いが込められています。神のことばによって人々の心を照らし、祈りのうちにその司牧的使命を果たす教皇の姿が、紋章の象徴を通して表現されているのです。

■新しい時代の教会の再構想

3.教皇の「橋」の霊性 教皇レオ14世は、2025年5月の就任直後から「一致」「橋をかける」「希望」というテーマを繰り返し語っておられます。「人類は、神とその愛に到達するための橋として、キリストを必要としています」という言葉には、教皇フランシスコの「壁ではなく、橋を築こう」という呼びかけが受け継がれています。分断が深まる時代にあっても、教会が対話を選び、苦しむ人々に寄り添いながら、いつくしみと平和のかけ橋となるという願いが込められているのです。 また、教皇は「平和は、心の中で、心から出発して、築かれます」(2025年5月16日、初の外交団との会見)と述べられました。それには、平和が制度的な秩序や社会の仕組みを超えて、一人ひとりの内面の選択と、人と人との関係性に根ざし、日々の対話と共感を通して育まれていくという信念が込められています。 教皇にとって「橋」という言葉は、単なる比喩ではありません。それは、神と人、人と人、そして教会と世界との関係を、もう一度結び直すという使命を象徴するものです。戦争、貧困、環境破壊など、現代の深い痛みに対して、教皇は信仰と希望をもって揺るぎなく立ち向かい、闇のただ中にあっても福音の光を力強く放とうとされています。

4. 神のまなざしが宿る教会 教皇レオ14世が語る「橋をかける教会」というビジョンは、「出会いと対話の教会」という根幹に支えられています。教皇は、人と人との出会いを「神があらかじめ用意された場」と捉え、そこに神のまなざしと愛が宿ると語られました(2025年8月6日、一般謁見)。神が人と人との間に橋をかけてくださるという信頼こそ、教皇の司牧的まなざしの根底にあるものです。人と人との出会いは、偶然ではなく、神の導きによって芽生える希望の始まりです。人が孤独や痛みの中で、見守られている、大切にされていると感じる瞬間こそ、新たな歩みの出発点となるのです。 そして教皇は、「神は、わたしたちの弱さのただ中に、希望の種をまかれます」(2025年被造物を大切にする世界祈願日メッセージ)と語り、神の働きは、人間の限界や苦しみのただ中にこそ現れることを示されました。 教会とは、単に教えを授ける場ではなく、人々の歩みに寄り添いながら、神の愛の現れとなる出会いを育む共同体です。教皇は、そうした出会いを通して希望と対話の橋が築かれ、分断と対立のただ中にあっても、神の平和が確かに注がれていくと語られています。

■神のよびかけに応える希望

5. 見えない神の働きへの信頼 教皇レオ14世は、「わたしたちの希望であるイエス・キリストについて」の連続講話において、「希望」を単なる前向きな感情や楽観主義ではなく、神の愛に気づき、それに応えて生きる信仰の姿勢として捉えています。2025年5月21日、登位後初めての一般謁見講話において、教皇はマタイ13章の「種を蒔く人」のたとえに触れ、神があらゆる状況にある人々に惜しみなくみ言葉の種を蒔かれることを語りました。このたとえを通して教皇は、希望とは、目に見える状況や結果に左右されることなく、神の約束に応えて歩む心の姿勢であると教えておられます。 また、「真のゆるしとは、悔い改めを待たずして、先立って与えられる無償の贈り物である」(2025年8月20日、一般謁見講話)との教えには、神の愛は、わたしたちが気づくよりも先に働きはじめ、応答できるかどうかにかかわらず、恵みとして惜しみなく注がれているという真理が示されています。教皇は、希望とは、神の愛を深く掘り下げて受けとめる霊的な営みであると捉えています。マタイ13章の「畑に隠された宝」のたとえに触れながら、「現実の殻を砕き、表面の下に入るとき、希望は再び燃え上がる」(2025年9月6日、一般謁見講話)と語られました。わたしたちが神の愛という宝に出会うためには、目に見える状況の奥にある神の働きへ信頼することが必要であり、まさにその信頼こそが、真の希望を育むのだと教えられます。 さらに、2025年10月15日の一般謁見では、復活したキリストを「涸れることも変化することもない、生きた泉」と呼び、「キリストの復活から、希望がほとばしり出ます」と述べています。教皇は、キリストがわたしたちの渇きをいやし、道を照らす方として、常に静かに、しかし確かに働いておられることを強調しました。 このように、教皇はその教えの中で一貫して、初めから注がれている神の見えない愛への信頼こそが、わたしたちの霊的な旅路において最も確かな光であると強調しています。

6. 聖体における神の回復の力 2025年のキリストの聖体の祭日の説教において、教皇レオ14世はルカ9章の「五つのパンと二匹の魚」の奇跡をもとに、「群衆が師である方に耳を傾けていた、人里離れた場所に、夜が訪れ、そこには食べるものがありませんでした(12節参照)。人々の飢えと日没は、世とすべての被造物を脅かす限界のしるしです。人間の人生と同じように、一日は終わります」と語られました。物質的な欠乏や時間の終わりが、神のあわれみと分かち合いの必要性を示すものとして捉えられています。そして、聖アウグスティヌスの説教を引用し、聖体は「人を回復させるが、尽きることのないパン。食べることはできるが、食べ尽くすことはできないパン」と述べられました。聖体は、疲れた心や傷ついた魂をいやし、再び立ち上がる力を与えるものであり、神のいのちは決して減ることなく、聖体を受けるたびに新たな恵みが注がれると説明されます。教皇は、信仰生活の中で疲れや空虚を感じる時こそ、「聖体に立ち返れば、いつでもいやしと力が与えられる」と語り、聖体が希望の源であることを示されました。 聖体は祭壇での祝いにとどまらず、日々の生活の中で生きられる現実であると、教皇は教えておられます(2025年8月6日、一般謁見)。聖体の恵みは、典礼の枠を超えて、日常の優しさ、ゆるし、そして見返りを求めない愛の行いの中に静かに息づいています。聖体とは、神のいのちが湧き出る泉のようなものであり、その泉に集う者は、いやしと希望を受け取り、再び歩み出す力を与えられるのです。

7. 若者―教会の未来を担う旅人たち 教皇レオ14世は、聖年の「青年の祝祭」において、2025年8月2日、夕べの「青年との対話」に臨まれ、若者を教会の未来を担うかけがえのない存在として深く信頼し、その声に耳を傾ける姿勢を示されました。若者の不安や問い、葛藤を否定することなく、それらを神との出会いへと導く霊的な旅の始まりとして受け止め、彼らが内に宿る光と可能性に気づくよう励まされました。聖アウグスティヌスの言葉「あなたはわたしの内におられたが、わたしは外にいた」を引用し、神のいのちはすでに若者のうちに息づいていることを思い起こさせ、彼らがその声に耳を澄ませるよう招かれました。 続く前晩の祈りで、教皇は、友情は孤独や断絶を超える絆であり、「友情は平和への道です」と語り、翌8月3日の「お告げの祈り」でも、紛争地の若者たちへの連帯を表し、「皆さんは、今とは異なる世界が可能であることを示すしるしです」と呼びかけられました。 閉会ミサにおいて、教皇は若者たちに向けて、「どこにいても、偉大なことを、聖性を目指してください。わずかなことで満足しないでください」と励まし、「上にあるもの」(コロサイ3・2)を求めるようにと勧められました。

​■教皇の平和へのまなざし

8. 武力に抗する平和の使徒 教皇レオ14世は、就任以来一貫して「平和の実現」を訴え、武力による解決を明確に否定してこられました。2025年6月22日の「正午のお告げの祈り」では、「人間の尊厳が脅かされているとき、『遠い』紛争など存在しない」と語り、地理的距離を超えた連帯の必要性を強調されました。また、「戦争は問題を解決しない」「武力によるいかなる勝利も、母たちの苦しみ、子どもたちの恐怖と奪われた未来を償うことはできない」と述べ、教会は武器ではなく言葉を選び、分断ではなく対話によって橋をかける存在であるべきだと呼びかけられました。 この平和へのまなざしは、2025年8月、広島と長崎へ送られた「原爆投下80年に際してのメッセージ」にも明確に表れています。「核兵器は、わたしたちが共通に持つ人間性を傷つけ、被造物の尊厳を裏切るものです」と語り、「武器を手放す勇気」こそが真の平和への道であると強調されました。 教皇フランシスコが広島・長崎を「記憶の象徴」と呼ばれたことを引用しながら、教皇レオ14世は正義・兄弟愛・共通善に根ざしたグローバルな倫理の構築を世界に訴えています。それは教会の使命であり、すべての人への福音の呼びかけでもあります。

9. 聖霊に仕える教会 教皇レオ14世の平和への願いは、「聖霊に仕える教会」というビジョンと結びついています。2025年の聖霊降臨前夜の祈りでは、「福音宣教とは、世界を支配することではなく、神のいのちから輝き出す限りない恵みです」と語られました。教会が、自らの力で世界を変えるのではなく、神の霊が働かれる場として、謙虚に用いられることを願っておられます。教会が聖霊に仕えるとき、平和は理念ではなく、祈りと出会いの中に息づく現実となり、その霊の働きの場に、わたしたちは橋をかける者として招かれているのです。 この教会が争いではなく一致を、支配ではなく奉仕を選び取る道は、静かで目立たないように見えるかもしれませんが、傷ついた世界にいやしと希望をもたらす力を秘めています。聖霊降臨の祭日のミサにおいて、教皇は「聖霊は何よりもまず、私たちの心に、主がすべての中心であり頂点であることを示す愛の掟を教え、思い起こさせ、刻んでくださいます」と語られました。教皇は、聖霊がわたしたちの閉ざされた扉を開き、無関心や憎しみの壁を打ち壊す力を与え、愛と平和に満ちた世界を築く力となってくださるように祈られました。

■教皇のビジョンと京都教区

10. 希望の橋をかける宣教司牧 教皇レオ14世が語る「一致」「橋をかける」「希望」というテーマは、「ともに生きる教会」を目指す京都教区の共同宣教司牧の歩みと一致しています。教皇の呼びかけは、信仰に根ざした人と人とのつながりを見つめ直し、築き直していこうという招きであり、「社会とともに歩む教会」(京都教区ビジョン1981年)を力強く再認識させるものです。 教区内では、信徒・修道者・司祭が役割や立場を超えて、共感と信頼、日々の実践を通して支え合い、協力し合う関係が育まれています。こうした関係性は、教会が単なる組織ではなく、福音に根ざした交わりの共同体であることを証ししています。 また、異なる言語や文化をつなぐ「橋をかける教会」の役割は、京都教区が志す多文化共生の実践と深く結びついています。この「橋」とは、単なる交流ではなく、互いの痛みや喜びを分かち合う信仰のかけ橋であり、「希望とは結びつけること」(2025年6月14日、聖年の講話)という教皇の言葉にも通じるものです。 この霊的な橋づくりは、京都教区の各小教区が取り組む多文化・多言語の共生の中に息づいています。異なる背景を持つ人々が、同じ聖堂に集い、同じ福音に耳を傾け、同じ聖体にあずかるその姿は、まさに「希望のかけ橋」としての教会のあり方を体現しています。京都教区の歩みは、分断ではなく交わりを、排除ではなく受け入れを、孤立ではなく共に歩むことを選び取る教会の姿を、地域の中に静かに、しかし確かに広げつつあるのです。

11. すべての声に耳を傾ける教会へ 京都教区は、2021年から始まった世界的なシノドスの歩みに積極的に関わりながら、少しずつ確かな実りを育んできました。高齢者、外国籍の信徒、若者、障がいのある方々など、これまで声が埋もれがちだった方々への配慮を大切にしつつ、教会の中に「耳を傾ける文化」が育まれています。とはいえ、現状では取り組みが限られた範囲にとどまっていることも事実です。だからこそ、これからの歩みは、対話と参加の輪をさらに広げ、「ともに歩む教会」としての成熟を目指す挑戦でもあります。教会が一部の人のものではなく、すべての人が招かれ、思いが受けとめられ、尊重される場となるよう、祈りと実践を重ねていく必要があります。 シノドスで勧められてきた分かち合いと傾聴を深める「霊における会話」が、集いや研修の場で実践されるようになりました。この「霊における会話」は、単なる意見交換ではなく、聖霊の導きに耳を澄ませながら、神の望まれる道をともに探るプロセスです。そこには、祈りに根ざした識別と、互いの尊厳を大切にする姿勢が息づいています。こうした歩みは、「社会とともに歩む教会」という京都教区のビジョンを、共同宣教司牧と対話の実践を通して少しずつ具体化し、福音を証しする共同体へと育てていくための確かな一歩となっています。

12. マリアとともに希望の旅路 教皇レオ14世は、「教会の豊かさは、マリアの豊かさそのものである」と語り、沈黙と信頼に満ちたマリアの信仰が、教会の霊的源泉であることを示されました(2025年6月9日、教会の母聖マリアの記念日ミサ説教)。十字架のもとに立ち、弟子たちと祈りをともにしたマリアの姿は、希望を生きる者の模範です。 希望とは、理念でも一時の感情でもなく、人生の物語の中に静かに息づくものです。祈りや奉仕、苦しみや喜びといった日々の断片が、神のいのちに織り込まれていくとき、希望は形をとり、光となって現れます。教皇の言葉「希望するとは、結びつけることである」は、神との関係、人との絆、そして教会の交わりが、希望のうちに育まれることを示唆しています。 わたしたちは、マリアにならい、「希望を担う者」として信仰の旅へと招かれています。沈黙のうちに神の約束を抱き、信頼をもってそれぞれの人生の断片を神のいのちへと結び合わせながら歩む旅人です。その歩みの中で芽生える希望は、祈りとなり、奉仕となり、ゆるしと喜びの光となって、世界へと広がっていきます。今、わたしは、人々をつなぐ希望を胸に、京都教区において、祈りと支え合いの日々が豊かに続いていくことを、心から願っています。

 2026年1月1日 元旦 神の母聖マリア

カトリック京都司教  ✙パウロ大塚喜直

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